福澤さんの悩みを共有してみよう

いろんな人に悩みをうちあけたら、「それは誰でも同じことだ」という旨を言われることが非常に多いなと思いました(なんかあまり親切じゃないですよね)。それならば、悩みを共有できる場を作って、少しでも多くの人が見せかけでも安心が得られるように、とブログを作ることにしました。

「え、どうしてウン○、食べないんですか?」って聞かれたら~「当たり前」とか「ふつう」とか、それは~

いや、タイトルがなんかおかしいけれども。
食事の時間の人や、不快な思いをされたかたはごめんなさい。あらかじめ謝罪申し上げます。

けっして大げさな話ではなく、自分の「独特の感覚(少数派の感覚)」を的確に表現する言葉や、多数派の考え方の人に伝える言葉を、何年も探したり、考えたり、一生懸命しているのだけれども、やっぱりこれ以上にしっくりくるものが見当たらなかったんです。
だから、あえてこの表現をつかって、説明することにしました。

リアル生活では友達に説明するときによく使ってた言葉なんだけれども、ネットに書いてしまうと、どうしてもいろんなところからベクトル違いの批判も受けそうな気がして、書けなかったの。
でも、勇気を出して、自分の独自の感覚を、書き残してみることにしました。
ひとつひとつ説明させてください。

私は「子どもをほしくない、という感覚」を生まれたときから持っています

私は、子どもがほしくありません。
生まれたときから、ずっとそう思っていました。
好きな人ができても、この人と結婚したいなと思うことがあっても、それでも、一度も「子どもがほしい」と思ったことはないんです。子どもがほしくないのです(それについて、原因や理由はないんです)。
そう言うと、聞き手から「え?どうして?」という言葉が必ず返ってきました。
そして、「どうして?」と聞かれるたびに、私はとてつもなく大きいなとまどいと、混乱を感じました。
そして、自分の感覚を、なんとか、伝えたいと強く思いました
(伝えたいと強く思った理由はよくわかりません。ただ単に、わかってほしかった、というシンプルな欲求なのかなという気はします、自分の感じ方が、いわゆる「普通」とか「当たり前」ではないんだ、と知ったから)。

 

私にとって「どうして子どもがほしくないの?」と聞かれたときの感覚とは?

この自分の感覚を、できるだけ多くの人に、コピー&ペーストするかのように伝える表現を、自分なりに考えた結果が以下のとおりです。
私にとって、「どうして子どもがほしくないの?」と聞かれたときの感覚は、「どうしてウン○食べないの?」と聞かれたときの感覚とほぼ同じ感じ方です。
「どうしてウン○食べないの?」と聞かれたら、どう感じますか?
たぶん、多くの人は、「食べない理由うんぬん」とか、いろいろ飛躍しすぎてて、めんくらうんじゃないかな、と勝手に想像しています。
「食べない理由」を答えるよりも、「え、ちょっと待って、食べるって???どういうこと?みんな食べるの?みんなフツー食べてるんだから、って言われても……それでも私は食べられないし、それでも私はわかんないよ……」ってとまどいませんか(私はとまどいます)。
多くの人にとって、「子どもがほしい」とか、「ウン○は食べない」と感じる感覚がうまれつき理由なく当たり前に備わっているの同じで、私にとって「子どもがほしくない」と感じる感覚は、うまれつき、理由なく、当たり前にそなわっています。
だから、理由なんてないし、自分でもかえたくても、かえられないから、理由を聞かれたり、異端扱いされても、とまどいます(もちろん、理由を聞いても、異端扱いしてもまったくかまわないですけれども、返答が必要な場合、一生懸命時間をかけて真面目に魂をこめて返事を考えるので、時間をください)。

「え。フツーにウン○食べられるけど。だから、よくわかんないな」という人がいたら、教えてください。その人にはまた別の、似たような感覚がないか、じっくり会話をして探しながら、説明したいです(本当に、真面目に、Seriously)。

誤解しないでほしい、ただ一つのこと

子どもや、尊い命を、排泄物と同じだと言いたいのではありません。
そこは誤解しないでほしいです(誤解が怖いので、今まで言うのを控えていました)。
子どもはかけがいのない存在です。
尊い命は、なにものにも代えがたい、プライスレスな存在です。
私が言いたいことは、その問いを尋ねられたときに、「心で感じるとまどい度が似ている」、ということ、ただそれだけです。
うまく伝わるかなあ、説明が下手だから、本当に、心配です。

私はマイノリティ

私は、自分の意思と関係なく、このように、少数派(マイノリティ)に属してしまうことがよくあるなあ、と感じます。
この何気ない「どうして子どもがほしくないの?」という問いから気付いた「子どもがほしくない」という感覚をはじめ、他にもいろいろと、多くの人には理解されにくい考え方が大小いろいろとありました。
「子どもがほしくないけど結婚はしたい」とか、「彼氏はほしいし結婚もしたいけれども、性行為は一生なしで過ごしたい」とか、こういう私にとっての生まれつき持っている「当たり前の感覚」も、他の人たちと比較してみれば、「当たり前」ではなかったり、世間に放り込まれれば「少数派」だったり、多くの人から「許されにくい類の考え」であると知りました(人と付き合うことがなければ、今でも知らないままだったかも、自分の当たり前しか知らないから。いろんな考えを知ることが出来てよかった、私と話をしてくれるみんな、ありがとう)。
少数派である自体はかまわないし(ただし、とてもとても生きにくいけれども)、自分では変えられないことだから、どうしようもないけれども、ある種の心構えは必要だなと思いました。
「子どもがほしくない女とは付き合えない」と言われることだとか、「は?子どもいらないなら結婚なんてしなくていいじゃん、意味わかんない、異常」と批判されたり、中傷されたり、あるいは厳しいご意見をいただくことは、常に当たり前だ、と覚悟することが必要だなと感じます。自分の願いが、現実世界において、ほとんどかなわないもの、受け入れられないものであることも、覚悟しなければなりません。
だから、それによって、不必要に心が毒されたり心が疾患にならないように、気を付けたいです(少数派であることの自覚をもち、多数派との付き合いや、投げられる意見への対応を常に予測したり、計画しておきたいな、自分が一番快適だなと感じる生き方で過ごすために)。
悩むことはしかたない、どうしようもないから。多数派の人だって、だれだって、等しく悩む。
悩んで、書いて、悩んで、そして、書いていこう。
悩んで、書いて、に意味があるのかはわからないけれども、そうしたいから、そうするよ。

そして、自分も、生きて生まれた、今を生きている人間であることを自覚し、人間としての尊厳を失わないように、自分を必要以上に傷つけないようにしよう(他の人ももちろん、傷つけないようにしよう)。そう心がけたいよ。

この話はここで終わりまして、ここから話題がかわります(「少数派」という存在について)

最近、少数意見を迫害する人をみていると心が痛みます。
「私はこういう意見です!」とか「私はそういう考え方ではありません」という主張をするのはいいと思いますが、「私と反対意見の人や少数派の人は、生きる価値がありません。人間のクズです、今すぐ死んでください」というニュアンスの内容に直面すると、たとえそれが自分に対する言葉ではなかったとしても、とてもとてもつらいです。
反対意見が受け入れられないなら、受け入れられないでいいと思います。
でも、迫害したり、追いやったり、抹殺する権利はないと思うのです。
「私とは違う意見で理解はできないけれども、反対の考えの人もいるんだな」と存在自体を認識することだけでも、できないものなのでしょうか。
少数派の人が生きていること自体が、そんなに許せないものなのでしょうか(生きていてごめんなさい、でも、人間だから、これからも生きます)。
みんながみんな、当たり前に同じことを考えるわけではない、とという前提はもっていないのかなあ。
自分と反対の考えの人を、「いないもの、異端なもの、存在してはいけないもの、いますぐ抹殺するべきもの」として、認識してしまうのは、悲しいなと私は主観的に思います(客観的じゃなくてごめんなさい)。

みなさんは、どうしますか?

誰だって、少数派に属する可能性はあると思います。
もし、自分が少数派に属したとき、どうしますか。
そんなことはありえないのかもしれないけれども、例えば、同性愛が多数派で、異性愛が少数派だったら、っていう世界を想像したことはありますか。
「わあ、男が女を好きになるなんて、気持ち悪い」とか「女が男を好きになるなんて、病気!」とか言われる世界に今生きていたら、どう思いますか。

本当は、「正しい」こととか、「当たり前」のこととか、「普通」のことなんて、どこにもなくて、ただ単に、「多数派」か「少数派」で分かれてるだけだと思います。絶対的なものではなく、相対的なもの。すべての戦争や対立が、「正義」と「悪」でできているのではないのと同じで(全ての対立は、「正義」と(また別の)「正義」のぶつかり合いなんじゃないかな、と思います)。
だから、本来は、ありとあらゆるすべての事象・現象が、きっと正しくて、当たり前で、普通なんじゃないかなあ、違うのかなあ。
反対の人や少数派の人を、理解する、なんてことは、全然できなくていいに決まってる(そして、賛成できなくていい、もちろん)。
ただ、「少数派として、人間として、ここに存在している」という事実とか存在だけ、認識してもらうことはできないのかなあ。
実は、みんな、誰もが、「普通」を生きていると、私は思っています。

○○○○

人間は誰でも、いつか死んでしまうから、
そして、地球は大きくて、140億年くらい前からあって、宇宙やそれよりも大きくて、もっと前からあって(しかもそれすらいつか終わることは決まっていて)、
私や他の人間が、悩んでも、考えても、感じでも、書いても、まったく意味や意義はないんだろうけれども、「どうせ死ぬから(めんどくさいこと、考えること、感じること、その他いろいろ、どうでもいい)」って、なんにもせずに寿命を待つには、やっぱり、間がもたなくて、長すぎるから、私をもてあそんでしまうから。
暇が両手でももちきれなくて、両手の指の間から、やわらかい砂のようにさらさらと、どんどんこぼれていくんだけども、それでもまだまだ、あふれ出てしまうから。
だから、書きました(また書きます)。
いつか砂時計が落ち切るまで、ずっと、私は、○○ます。

いつも読んでくださって、どうもありがとうございます。

 

マイノリティとは何か―概念と政策の比較社会学 (MINERVA人文・社会科学叢書)

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New Sensation

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POWER GATE

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 最後の最後に、大好きな人からいただいた言葉をはりつけて、終わります。

なんか、前向きな感じでおわるなんて、全然私らしくないけれども(笑)。(ちょっと体調がいいみたい?)

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またね!(春色でちょっとキメたい)